LOGIN午前一時十四分へ変わる直前、欄干の外側から伸びた白い指が奈々香の髪へ触れた。
最初は濡れた枝が風に煽られたのだと、澪の目は理解を拒んだ。
だが指は五本あり、その先には掌があり、細い手首が暗い谷側へ続いていた。
橋の外には人間が立てる足場などない。
それでも女の手は奈々香の後頭部へ回り込み、長い髪を根元からまとめて掴んだ。
「奈々香!」
澪は反射的に彼女の左腕を引いた。
ほとんど同時に奈々香の身体が欄干側へ強く引かれ、首が不自然に後ろへ反る。
奈々香は悲鳴を上げ、両手で自分の髪を押さえたが、見えない何かに身体ごと持っていかれるように靴底が路面を滑った。
朔が右腕を掴み、美月は奈々香の腰へ腕を回した。
悠斗と蓮司もすぐ駆け寄り、欄干から距離を取らせるよう全員で橋の中央へ引く。
澪の掌へ奈々香の爪が食い込み、朔の靴が濡れた路面で一度滑った。
髪を引く力は一瞬だけさらに強くなり、ぶちぶち、と嫌な音が奈々香の後頭部から聞こえた。
次の瞬間、力が消えた。
奈々香の身体は勢い余って橋の中央へ倒れ、澪も膝を路面へついた。
朔は奈々香を支えるより先に欄干へライトを向け、美月は倒れた彼女の頭を両腕で守る。
白い手はもうどこにもなかった。
「動かないで。頭打った?」
「髪……髪が……」
奈々香は泣きながら後頭部を押さえた。
美月はすぐ手袋をつけ、頭皮を照らして傷を確認する。
頭蓋部に打撲らしい腫れはないが、右後頭部だけ髪が不自然に薄くなり、赤くなった頭皮へ小さな出血点が幾つも並んでいた。
路面には髪が落ちていた。
十本や二十本ではない。
長い毛髪が数十本、束になって欄干近くへ散らばり、その多くに毛根がついている。
何かへ絡まった髪が自然に抜けたのではなく、強い力で根元から引き抜かれた痕跡だった。
「誰かいた?」
悠斗が欄干から下を照らす。
「いない」
蓮司も別角度から橋の側面を確認した。
コンクリート欄干の外側はほぼ垂直に落ち、下には十数メートル先の河原がある。
橋脚へ点検用の細い突起はあるものの、人間が片手でぶら下がりながら奈々香の髪を掴める位置ではない。
ロープを使えば可能性は残るが、欄干にも橋面にも固定具や擦れ跡は見当たらなかった。
朔はすぐに橋下へ続く斜面へライトを向けた。
先ほど透らしき人物が現れた河原にも人影はなく、川の浅瀬には黒い水だけが流れている。
もし誰かが欄干の下へ隠れ、奈々香へ手を伸ばしたのなら、六人が引き戻した直後に逃げなければならない。
しかし下へ降りる音も、草を踏む音も、川へ入る音も聞こえなかった。
「ワイヤーは?」
蓮司が奈々香の髪と欄干周辺を調べる。
透明糸や細い金属線を髪へ引っ掛けたなら、手に見えたものだけを映像で重ねる仕掛けも考えられる。
だが奈々香の頭部にも衣服にも線は残らず、欄干の外へ伸びるものもなかった。
奈々香は美月に支えられたまま、スマートフォンの時計を見た。
午前一時十四分。
「生きてる」
声は震えていた。
「十四分になった」
死亡時刻は午前一時十四分へ変更されたはずだった。
それでも奈々香は呼吸し、会話をしている。
脈拍は恐怖で速いものの安定しており、美月が確認する限り生命に関わる外傷もない。
「二回外れた」
悠斗が欄干から戻ってきた。
「一時十三分も、一時十四分も」
朔はすぐには同意しなかったが、事実として奈々香が生存していることは認めた。
犯人が予告した時間へ事故や罠を合わせようとしていたなら、少なくとも今の時点では成功していない。
白い手の正体が説明できなくても、死亡予告そのものが絶対ではないことだけは確かだった。
奈々香はその言葉を聞いて、ようやく澪の手を握る力を緩めた。
呼吸を整えようと何度も息を吸い、それでも途中で嗚咽が混じる。
澪は後頭部から抜けた髪を見ないよう、身体を少しずらして視界を遮った。
そのとき、山道の奥から激しい衝突音が響いた。
金属が潰れる低い音に続き、ガードレールが振動する甲高い響きが山肌へ反射する。
六人は一斉に顔を上げた。
橋の向こう、旧道が緩く曲がって見えなくなる方向だった。
「車?」
蓮司がライトを持って走り出し、朔と悠斗が続く。
奈々香を一人にできないため、美月と澪が両側から支え、六人でまとまって音のした方へ向かった。
死亡予告の直後だけに、奈々香は行きたくないと何度も言ったが、橋へ一人残す選択肢もない。
百メートルほど進むと、ヘッドライトの光が木々の間へ見えた。
小型の軽自動車が道路脇のガードレールへ斜めに突っ込み、前部を大きく潰して停止している。
エンジンはまだ動いているらしく、低い回転音と焦げたゴムの臭いが周囲へ漂っていた。
「近づく前に止まれ」
蓮司が全員を制した。
二次的な装置が仕込まれている可能性を考え、まず周囲、路面、車体下をライトで確認する。
燃料漏れや火災の兆候はなく、タイヤの一つだけが空転していた。
運転席には誰もいなかった。
エアバッグは開いている。
それなのに座席にも足元にも人影はなく、運転席側のドアは内側から閉じられている。
窓も割れていない。
無人の車が、つい今まで誰かに運転されていた速度でガードレールへ衝突したように見えた。
「助手席」
美月の声が変わった。
一人の女が座っていた。
長い黒髪。
薄い色のブラウス。
顔は横へ傾き、目を閉じている。
シートベルトはしていない。
衝突の衝撃を受けたならフロントガラスへ身体をぶつけてもおかしくないのに、女は眠っているような姿勢で助手席へ収まっていた。
「香苗……?」
奈々香が澪の背中越しに呟いた。
蓮司は鞄から常世荘の資料を取り出し、園村香苗の写真を画面へ表示した。
十三年前、二十三歳で常世荘二〇三号室から失踪し、その後この戻り橋で交通事故死した女性。
浴室の録画映像にだけ映り、押し入れを指さしていた顔だった。
「一致する」
蓮司の声が低くなる。
髪型も輪郭も、眉の形も、唇の薄さも同じだった。
それ以上に異様なのは、十三年前の写真から年齢がほとんど変化していないことだった。
生きていれば三十代半ばになっているはずなのに、助手席の女は二十三歳当時の園村香苗にしか見えない。
「死んだ人が、またここにいるの……?」
奈々香が後退した。
「まだ死体と決めるな」
美月は救急鞄を下ろした。
衝突事故なら、何より先に生命兆候を確認しなければならない。
運転席が無人であることや顔が十三年前の死者に似ていることより、目の前に身体がある以上、救護の可能性を捨てる方が危険だった。
美月が助手席側へ近づこうとした瞬間、朔が腕を出した。
「待って」
「確認だけする」
「透が何て言った」
美月の足が止まった。
俺を見つけても、絶対に触るな。
橋の下で現れた透と、電話越しの透が同時に叫んだ言葉だった。
相手が透本人ではなかったとしても、誰かが死体に見えるものへ触れさせることで別の罠を作っている可能性はある。
「まず外から見る」
朔はライトを助手席へ当て、窓越しに女の胸元を観察した。
呼吸による上下動は見えない。
衝突時の出血もなく、皮膚には青白さがあるが、死後変化と判断できるほど自然ではなかった。
蓮司が助手席側のドア周辺に配線やワイヤーがないか確認したあと、朔が長い棒を使ってドアノブを引いた。
鍵はかかっておらず、ドアは少しだけ開く。
何も作動しないことを確認してから、美月がフェイスシールドと厚手の手袋をつけ、直接身体を掴まずにペンライトを顔へ近づけた。
「……これ、人じゃない」
澪は息を止めた。
美月が女の頬をペン先で軽く押す。
皮膚が不自然な形で沈み、ゆっくり戻った。
毛穴も薄い血管も精巧に作られているが、皮下に筋肉の抵抗がない。
シリコン製だった。
髪は人毛に近く、一本ずつ頭部へ植え込まれている。
眼球も義眼を使い、睫毛や眉まで細かく再現されていた。
衣類は写真に残る園村香苗が失踪当時よく着ていたものと似た型で、首元には古いネックレスまで再現されている。
「誰かが香苗さんの死体を作った」
奈々香が吐きそうな声で言った。
美月は人形へ触れる範囲を最低限にし、身体の内部に機械や危険物がないか外から確認した。
重量も人間に近づけてあるらしく、助手席へ深く沈んでいる。
事故直後の夜道で一瞬見れば、本物の遺体と間違えても不思議ではなかった。
「写真だけでここまで作れる?」
悠斗が訊く。
「技術的にはできる」
朔が答える。
「資料が多ければもっと精度を上げられる」
常世荘の隠し部屋には、園村香苗を含む歴代女性入居者の盗撮写真が大量に残っていた。
正面だけでなく横顔、眠っている姿、入浴前の髪を上げた状態まである。
それらを手に入れた人物なら、外見を精密に再現するための資料には困らない。
「つまり犯人は、常世荘の隠し部屋にあった記録を使ってる」
蓮司が言った。
「今の仕掛けを作った人間が、あそこへ出入りしてた証拠にはなる」
澪は人形の顔を見ているうちに、十三年前の香苗本人が二重に奪われているような感覚を覚えた。
一度は壁の中から生活を覗かれ、死後には事故が怪談へ変えられ、今は顔や身体まで殺人の演出として作り直されている。
誰かは古い被害者の人生を、恐怖を生み出すための素材として扱っていた。
そのとき、助手席の人形の胸元から着信音が鳴った。
奈々香が悲鳴を上げて澪の腕へしがみつく。
美月も反射的に一歩下がり、朔は全員へ車体から距離を取るよう指示した。
音は人形のブラウスの内側から聞こえている。
「携帯が入ってる」
外から輪郭が見えた。
胸元へ小型のスマートフォンが差し込まれている。
画面の光が薄い布越しに明滅していた。
蓮司が絶縁性の長い器具で端末だけを引き出し、路面へ置いた。
触れなくても画面は見える。
発信者。
〈園村香苗〉。
「本人の番号?」
「十三年前の携帯番号なら、もう使われてないはず」
蓮司が答える。
そもそも香苗の死亡当時の携帯電話は常世荘に残されていたと記録されており、この新しい端末とは関係がない。
名前だけを表示させている可能性が高かった。
端末は七回鳴る前に、自動的に通話状態へ切り替わった。
若い女の声が流れる。
『死亡時刻を変更します』
奈々香が首を振った。
「やめて……」
声は園村香苗のものなのか、誰にも判断できない。
十三年前の録音資料を持っている者はいない。
ただ、二十代前半ほどの落ち着いた女の声だった。
『今度は外さないでね』
その言い方には、遊びの規則を破られたことへ不満を示すような軽さがあった。
奈々香は自分が殺されかけたという事実より、その死を「外した」と表現されたことに耐えられないように顔を歪めた。
携帯電話の画面が切り替わった。
〈白石奈々香〉。
その下へ新しい時刻が表示される。
午前三時十三分。
奈々香の予定死亡時刻が、さらに先へ変更されていた。
「何時?」
奈々香は自分で画面を見ることができず、澪へ訊いた。
澪は時計を確認した。
午前一時十六分を少し過ぎている。
二時間弱。
さっきの四十二分より長い猶予が与えられたように見えるが、それは助かった時間ではない。
「三時十三分」
澪が答えると、奈々香の膝が震えた。
「また……?」
美月がすぐ身体を支えた。
朔は人形の携帯電話と無人の軽自動車、事故現場の周囲を順番に見た。
予告時刻を変更できるということは、最初から未来の死を知っているのではない。
奈々香が罠を回避するたび、新しい計画へ切り替えている人間がどこかにいる。
その事実だけなら、むしろ人為的な犯行である可能性を強めていた。
「二時間ある」
蓮司が言った。
「今度は待たない」
奈々香が顔を上げる。
「何するの」
「三時十三分に何かを起こしたいなら、もうどこかに準備がある。予告が未来を知ってるんじゃなく、予定を告げてるだけなら、その予定を先に見つける」
悠斗も頷いた。
車、倉庫、電話ボックス、山林の無線設備。
すでに複数の罠が人間の手で仕込まれている以上、次の殺害方法だけが突然超自然的なものになると考える必要はない。
奈々香は震えたまま、それでも小さく頷いた。
二度の予告を生き延びたことで、恐怖の中にも僅かな怒りが戻り始めていた。
自分の死ぬ時間を一方的に決められ、そのたびに怯えて逃げるだけでは終われないと思ったのかもしれない。
そのとき、助手席のシリコン人形がわずかに傾いた。
衝突後の車体が沈んだだけにも見えた。
だが澪には、園村香苗の顔を模した白い頭部が、奈々香の方へ少しだけ向きを変えたように見えた。
誰にも触れられていない携帯電話のスピーカーから、女が最後に小さく笑った。
午前二時五十分。 美月が自分へ告げられた死亡予定時刻を生きて越えてから二十分余り、六人は旧道脇の開けた場所で次の動きを決めかねていた。 奈々香の午前三時十三分まではまだ時間があるが、園村香苗を模した人形、偽造された薬剤、切断寸前のブレーキ配管と、罠は一つずつ見つけても終わる気配がない。 さらに美月へかかってきた声は、高校時代の澄花しか使わなかった言葉まで知っていた。 犯人が現在の行動だけではなく、八年前の七人の私的な記憶にまで入り込んでいるという感覚が、眠気より重く全員の身体へまとわりついていた。 悠斗は橋の欄干近くで煙草へ火をつけ、苛立ったように一度深く吸い込んだ。 警察への連絡は妨害されたままで、車を動かすことにも警戒しなければならず、何かを触れば罠かもしれない一方で、何もしなければ別の仕掛けを見落とす。 その窮屈さに耐えかねたように煙を吐いた瞬間、彼のスマートフォンが上着のポケットで鳴った。 画面へ表示された名前を確認した悠斗は、露骨に顔をしかめた。「今度は俺かよ」 発信者は〈黒瀬悠斗〉。 自分自身からの着信だった。 誰も応答しないうちに端末は勝手にスピーカーへ切り替わり、悠斗本人の声で〈黒瀬悠斗。死亡予定時刻、午前三時〇二分〉と読み上げた。 悠斗の表情は一瞬だけ固まったものの、奈々香のように怯える代わりに、すぐ怒りが恐怖を押し潰したように腕へ力を込めた。「ふざけんな」 時刻は午前二時五十分を少し過ぎたところで、残り十二分しかない。 悠斗はスマートフォンの電源を切ろうとしたが、朔が記録を残すため止めると、端末を握ったまま橋の中央まで歩いていった。 そこで胡坐をかくように路面へ座り、両手を膝の上へ置く。 顔には、犯人の思いどおりには一歩も動かないという意地が浮かんでいた。「だったら俺は何もしない! 車にも乗らない。倉庫にも入らない。電話も取らない。何も食わないし飲まない。ここから一歩も動かなきゃ、罠に誘導しようがないだろ」 理屈だけなら間違っていなかった。 奈々香は恐怖から車で逃げようとし、美月は仲間を助けるため医療バッグを開くことを読まれていた。 本人が自然に取る行動の先へ殺害手段を置くのなら、その行動自体を止めればいい。 澪も一瞬は悠斗の考えがもっとも安全に思えたが、朔だけは時計から目を離さなかった。「座っ
午前一時五十二分。 蓮司の車内で奈々香の手のひらに残った赤い文字を撮影していたとき、美月のスマートフォンが短く震えた。 通信妨害が続く山中では、通常の回線を通した着信など成立しないはずだった。 それでも画面は着信表示へ切り替わり、発信者欄へ〈早乙女美月〉という名前が浮かんだ。 美月は端末を持ち上げたまま、すぐには応答しなかった。 奈々香のときと同じなら、触れなくても勝手に通話状態へ切り替わる。 朔がカメラを向け、蓮司が時刻を記録し、澪は眠気の消えた奈々香の肩へ手を添えた。 三度目の振動が終わったところで、予想どおり画面が自動的に切り替わった。『早乙女美月』 スピーカーから流れたのは、美月自身の声だった。 救急現場で必要事項を確認するときの、無駄な抑揚を削った落ち着いた声。 それが本人の名を読み上げ、数秒の間を置いて続ける。『死亡予定時刻、午前二時二十七分』 車内の時計は一時五十二分を示していた。 残り三十五分。 奈々香が息を呑み、美月の横顔を見た。 美月はすぐ端末を伏せたが、声も呼吸もほとんど乱れていなかった。「美月……」「大丈夫」 奈々香の死亡予告を二度経験したあとだから、仕組みそのものに慣れたわけではない。 それでも自分へ向けられた数字を聞いた瞬間、美月が恐怖より先に何を狙われているのか考え始めたことが、澪には表情から分かった。 奈々香が「怖くないの?」と訊くと、美月は一度だけ視線を時計へ戻し、自分の脈を確かめるように手首へ指を当てた。「怖いよ。でも、怖がったときにどう動くかまで読まれてるなら、取り乱した方が相手の予定どおりになる」 奈々香は何も言えず、自分の掌へ残った赤い文字を見た。 美月は一度深く息を吐き、車外へ出る前に自分の持ち物から確認すると言った。 犯人は奈々香の車とバッグへ罠を仕込み、本人が自然に選ぶ逃げ道を殺害手段へ変えていた。 ならば救急救命の知識を持つ美月に対しても、彼女が危機へ直面したとき最初に手を伸ばすものが狙われている可能性が高い。 美月が最初に床へ置いたのは医療バッグだった。 七刻女学校へ入る前から持ち歩き、透の死亡確認にも使ったものだ。 止血用品、包帯、消毒薬、体温計、簡易の検査器具、常備薬が細かく仕切られた内部へ収まっている。 美月自身が補充しているため、本来なら一本増
午前三時十三分まで、二時間を切っていた。 園村香苗を模したシリコン人形が置かれた軽自動車を警察へ引き渡すための連絡は、依然として電波妨害に阻まれている。 山道を徒歩で抜ければ通信圏まで戻れる可能性はあったが、奈々香の死亡予定時刻を告げた者が、その行動まで見越して罠を置いていない保証はない。 蓮司は車と倉庫で見つかった仕掛けを見回したあと、逃げるのではなく、相手が午前三時十三分に何を起こすつもりなのか先に探すと決めた。「予言じゃないなら、予定表だ」 悠斗が低く言った。 奈々香を一時十三分に殺すため、犯人はブレーキ配管を切り、倉庫へ落下装置を用意していた。 二つとも見破られたあと、予定時刻だけが三時十三分へ変更されたなら、新しい罠をすでに準備しているか、離れた場所から起動できる仕掛けへ切り替えた可能性が高い。 死亡予告を恐れるだけでは、犯人が用意した選択肢の中を動かされ続けることになる。 奈々香は蓮司の車の後部座席へ移された。 二台とも遠隔遮断器を外したため電源は復旧していたが、ブレーキへ細工された奈々香の車は動かせない。 蓮司の車も走らせず、橋と電話ボックス、山林のいずれからも距離を取り、周囲を四方向から確認できる路肩へ停めた。 美月が奈々香の隣に残り、窓とドアを内側から施錠し、何があっても一人で外へ出ないよう約束させた。「眠ったら駄目?」 奈々香は疲れ切った顔で訊いた。 二度も死亡時刻を告げられ、髪を根元から引き抜かれたうえ、橋の上で長時間緊張を続けている。 美月は無理に起き続ければ判断力が落ちるため、短時間眠ること自体は問題ないと答えた。 ただし自分が必ずそばにいて、呼吸と意識状態を確認し続けると伝える。 澪、朔、悠斗、蓮司の四人は、電話ボックス脇から山林へ伸びるケーブルを再び辿った。 小型無線中継器は倒木の裏へ防水ケースごと固定され、遠隔信号で公衆電話のベルや音声再生装置を動かせるようになっている。 先ほどは構造を確認するだけに留めていたが、今度は朔が書き込み防止用の機器を介し、ノートパソコンから保存領域の複製を始めた。 犯人へ接続を悟らせないため、通信機能そのものは切らず、記録だけを読み取る。「ログが残ってる」 朔の指が止まった。 端末には日時と送信先を示す記録が並び、今夜の着信だけでなく、数日前から試験信号
午前一時十四分へ変わる直前、欄干の外側から伸びた白い指が奈々香の髪へ触れた。 最初は濡れた枝が風に煽られたのだと、澪の目は理解を拒んだ。 だが指は五本あり、その先には掌があり、細い手首が暗い谷側へ続いていた。 橋の外には人間が立てる足場などない。 それでも女の手は奈々香の後頭部へ回り込み、長い髪を根元からまとめて掴んだ。「奈々香!」 澪は反射的に彼女の左腕を引いた。 ほとんど同時に奈々香の身体が欄干側へ強く引かれ、首が不自然に後ろへ反る。 奈々香は悲鳴を上げ、両手で自分の髪を押さえたが、見えない何かに身体ごと持っていかれるように靴底が路面を滑った。 朔が右腕を掴み、美月は奈々香の腰へ腕を回した。 悠斗と蓮司もすぐ駆け寄り、欄干から距離を取らせるよう全員で橋の中央へ引く。 澪の掌へ奈々香の爪が食い込み、朔の靴が濡れた路面で一度滑った。 髪を引く力は一瞬だけさらに強くなり、ぶちぶち、と嫌な音が奈々香の後頭部から聞こえた。 次の瞬間、力が消えた。 奈々香の身体は勢い余って橋の中央へ倒れ、澪も膝を路面へついた。 朔は奈々香を支えるより先に欄干へライトを向け、美月は倒れた彼女の頭を両腕で守る。 白い手はもうどこにもなかった。「動かないで。頭打った?」「髪……髪が……」 奈々香は泣きながら後頭部を押さえた。 美月はすぐ手袋をつけ、頭皮を照らして傷を確認する。 頭蓋部に打撲らしい腫れはないが、右後頭部だけ髪が不自然に薄くなり、赤くなった頭皮へ小さな出血点が幾つも並んでいた。 路面には髪が落ちていた。 十本や二十本ではない。 長い毛髪が数十本、束になって欄干近くへ散らばり、その多くに毛根がついている。 何かへ絡まった髪が自然に抜けたのではなく、強い力で根元から引き抜かれた痕跡だった。「誰かいた?」 悠斗が欄干から下を照らす。「いない」 蓮司も別角度から橋の側面を確認した。 コンクリート欄干の外側はほぼ垂直に落ち、下には十数メートル先の河原がある。 橋脚へ点検用の細い突起はあるものの、人間が片手でぶら下がりながら奈々香の髪を掴める位置ではない。 ロープを使えば可能性は残るが、欄干にも橋面にも固定具や擦れ跡は見当たらなかった。 朔はすぐに橋下へ続く斜面へライトを向けた。 先ほど透らしき人物が現れた河原にも人影はなく
〈死亡予定時刻、午前一時十三分〉という自分自身の声を聞いてから、奈々香はまともに呼吸ができなくなっていた。 美月が肩へ手を置いてゆっくり息を吐くよう促しても、彼女の視線はスマートフォンの時計へ吸いついたまま離れない。 午前零時三十二分。 残り四十一分という数字が一つ減っただけで、奈々香は喉を押さえ、橋を出ると言って車へ向かって歩き出した。「ここにいたら死ぬ。私、帰る」 悠斗が追いかけ、蓮司も橋を離れるなら六人一緒だと制した。 誰も奈々香を一人にするつもりはなく、死亡予告が犯人の誘導である可能性を考えれば、指定場所から逃げることさえ罠になり得る。 それでも奈々香は首を振り、今いる場所こそ殺されるために選ばれた場所だと言いながら、震える手で車のドアを開けた。 運転席へ座った奈々香がスタートボタンを押すと、セルモーターすら回らなかった。 警告灯だけが一度点き、すぐにメーター全体が暗くなる。 奈々香は「なんで」と呟きながら何度も始動を試したが、結果は同じだった。 朔がすぐに運転席から降ろし、車体へ触れる前に周囲を撮影する。 蓮司が自分の車でも始動を試したが、そちらも反応せず、二台ともほぼ同時に電気系統を失っていた。 悠斗がスマートフォンを取り出して警察へ連絡しようとすると、アンテナ表示は消え、圏外になっている。 美月、蓮司、澪の端末も同じで、数分前まで使えていた位置情報共有も切れていた。 山間部とはいえ、橋へ到着した時点では弱いながら通信できていたため、自然な電波状況の変化だけでは説明しにくかった。「妨害されてる」 朔は山林側へ隠されていた無線中継器とは別に、広い帯域へ雑音を流す小型の妨害装置がある可能性を指摘した。 車の始動不能まで同じ設備で起こせるとは限らないが、少なくとも外部との連絡を切り、六人を橋周辺へ留める意図は明確だった。 彼は自分の端末を操作しながら、通信が完全に失われた時刻と奈々香への死亡予告が流れた時刻を並べ、偶然にしては近すぎると呟いた。「じゃあ、さっきの電話は?」 奈々香が自分の端末を差し出した。「圏外になる前にかかってきたんでしょ。誰から?」 朔は着信履歴を開き、しばらく画面を見たあと眉を寄せた。 そこには白石奈々香からの着信が存在しなかった。 通話記録にも、不在着信にも、午前零時三十一分の発信は
午前零時十三分を過ぎても、河原に相馬透の姿が戻ることはなかった。 濡れた石の上には、彼が使っていた黒いヘッドフォンと、細長く伸びた磁気テープだけが残されている。 美月は手袋を二重にしてからヘッドフォンを拾い、朔が横で位置と状態を撮影した。 磁気テープには直接触れず、蓮司が長いピンセットで別の証拠袋へ収める。「これ、透のです」 美月はヘッドフォンの内側を懐中電灯で照らした。 左側のヘッドバンド裏に、浅い三本の傷が並んでいる。 高校時代、透が音響機材を机から落としたときについたもので、本人が気にせず使い続けていたため、美月も澪も何度か見たことがあった。 イヤーパッドの裂け目を白いテープで補修した跡まで一致しており、似た機種を用意しただけとは考えにくい。 澪は河原の暗がりを見た。 七刻女学校の放送室で透が倒れたあと、このヘッドフォンは彼の荷物と一緒にあったはずだった。 その遺体が消えた際に所持品まで持ち出されたのか、誰かが警察の封鎖前後に回収したのか、それともさらに別の経路で戻り橋へ運ばれたのか、判断できる材料はない。 確かなのは、死んだと確認した友人の私物が、今夜ここへ置かれていたことだけだった。「触った人間の痕跡が残ってるかもしれない。現場では最低限にする」 蓮司の言葉に、美月は頷いた。 だが朔はヘッドフォンを袋越しに見るうち、右側のハウジングだけわずかに厚みが違うことへ気づいた。 通常なら左右対称に近いはずの外装が、片側だけ一ミリほど浮いている。 落下で歪んだ可能性もあるが、螺子頭には一度開けたような細い傷があった。「中に何か入ってる」 悠斗が顔を寄せる。「ここで開けるのか?」「全部は開けない。外から確認できる範囲だけ」 朔は蓮司と警察へ連絡を入れ、現地保存を優先しながらも、現在進行中の危険につながる情報が隠されている可能性を説明した。 許可を得たうえで、車から精密工具を持ってきて右側の外装を慎重に外す。 内部の配線には大きな改造はなかったが、吸音材の裏へ、薄い黒色のメモリーカードがテープで固定されていた。「また記録媒体」 奈々香の声が小さくなる。 返し雛の内部から出てきた特殊規格のカードを思い出したのだろう。 朔は今回のものは一般的な小型規格で、八年前にも市販されていた形式だと説明した。 透は音響機器の